阿波踊り回顧②
オヤジの阿波踊り体験は、幼少期には父親と一緒に「四国電力」の連で踊って
行った。小さい子供が踊ると結構人気があって、そこそこ拍手を貰ったようだ。
そんな幼児体験が有ってか、機会があれば踊りたいのが「阿波っ子」であるが
オヤジが本格的に参加したのは「大学連」だった。多くの大学が全国から参加
して来るのも阿波踊りの特徴だが、残念ながらオヤジの母校からの踊り込みは
無かった。そこで毎年同級生のお世話になり、東京の「中央大学」の連に参加
させて貰っていた。ちなみに「連(れん)」とは踊りのグループのことを言う。
中央大学の連に参加させて貰うようになった経緯は、単に友人の兄貴の浴衣が
一組余っていたからだ。学校の方も他校の生徒が一人加わろうが加わるまいが
とやかく言わないのが阿波踊り、毎年同じ学校の仲間の様に接してくれたのが
楽しさを倍増させた。就職してからは、会社の連に参加した。これには大阪の
おとうさんには浴衣の手配などで随分世話になった。しかし企業連はイコール
宣伝、浴衣に書かれた大きな食品名がチョットだけ恥ずかしかったものである。
その後の阿波踊りは、自宅でテレビ中継を視るか観光に来た友人知人を案内し
街へと出かけた。桟敷席に案内したり、そのころから誕生した「にわか連」に
参加して一緒に踊った。浴衣もなしで、全国から集まった観光客たちと一緒に
踊るのも結構楽しいものである。そんな阿波踊り、年とともに中腰で踊るのが
少々大変になって来た。あれはよくよく考えると腰に悪いが、今年もまたまた
老若男女入り乱れての踊りが始まる。阿波徳島は一年で一番輝く時季を迎える。
ある年会社の次長から阿波踊りの担当になっているのだがうちの会社男子は多いが女子が少ないから山田君集めてくれないかと言われた。
その当時妹が毎週徳島のジャズダンス教室へ教えに来ていて生徒が百人くらいいた。 そこで頼んで15人ほど参加してもらって会社の着物を着てもらった。
私はというとポカリスエットが売れすぎて盆休みが短縮になり仕事だ。頼んだ自分が行かずどうなっているんだろうと心配してました。
妹は徳島~岬の深日のフェリーで
毎週乗っていると船員さんが操舵室に呼んでくれコーヒーを出してくれるし南海電車に間に合うように限界までエンジンを回してくれるそうなのです。
投稿: 大阪のお父さん | 2024年8月 5日 (月) 11:12