努力の差を見た
東京2020パラリンピックが開幕した。オリンピックと比べると華やかさは
少なく、放送するテレビ局の数も限定されている感があるが、情報化が進んで
これまでは知らなかった出場選手たちの生い立ちや、障害に至った経緯などが
詳細に紹介されるようになった。それらの放送を見るたび、オヤジはこれまで
生きて来た世界の「狭さ」を感じずにはいられない。更には「努力」って一体
何だろうか「喜び」って「幸せ」って、と次々に「?」が浮かび上がって来て
これまでの自身の生き方を省みる時間が生れた。もはや、健常者以上の感性と
優しさ、そして時としてオヤジさえも敵わない身体能力は、どうして生れるの
だろうか。そこには尊敬こそあれ、哀れみなど微塵もない。身体的ハンディを
除いて、すべてに渡り障害者のほうが勝っている。このハンディをハンディと
感じていない人も多くいる現実を考えると、我々健常者は、彼らが経験をした
想像を絶する努力を行ってこそ、初めて「対等」だと言う理屈になる。今回の
パラリンピックや先日の24時間テレビなどは、自身の生き方を見つめなおす
良い機会かも知れない。この今の気持ち、もう少し若い頃に気付いていればと
思うのだが人間はそんな生き物かも知れない。我々はまだまだ努力が足りない。